2023/10/14
「ねえ、ミサッピさんって、代筆屋なんですよね?」
ある春の午後、東京・神楽坂のカフェで、若い女性が少し戸惑ったようにそう聞いた。髪を結い、淡いブルーのワンピースを着ている彼女は、今度の結婚式でスピーチを頼まれたという新婦の親友だった。
「正確には、“物語編集者”って呼んでるけどね」とミサッピは微笑む。
ミサッピ――本名は春木美沙。広告代理店でコピーライターを務めた後、独立して“感情を言葉にするプロ”として活動している。結婚式、退職、葬儀、手紙、そしてプロポーズ。人が「何かを伝えたい」と願う瞬間にだけ姿を現す。誰にも知られずに誰かの言葉を支える、それが彼女の仕事だった。
「でも、代筆って、“自分の気持ちを偽る”ことにならないんですか?」
その問いには、よく慣れていた。ミサッピは、ふと窓の外に目をやってから、ゆっくり口を開いた。
「むしろ、自分の本当の気持ちに出会うための作業なのよ」
ミサッピの事務所は、築50年の古民家を改装した小さな書斎だった。壁にはびっしりと本が並び、机の上には万年筆と録音機材。それは、言葉と対話のためだけに整えられた空間だった。
彼女はいつも最初に、「あなたは、なぜその人にスピーチを届けたいのか?」という問いから始める。
今回の依頼人は、新婦の大学時代からの親友・奈津子・サマ―。明るく気遣い上手で、でもスピーチとなると緊張で頭が真っ白になるタイプだという。
「自分が何を伝えたいか、うまく言葉にできないんです」
ミサッピは録音を止め、メモを取った。表情、口癖、言い淀み――そこに、その人らしさが隠れている。大事なのは事実じゃない。感情の地層だ。
取材は3回に及んだ。ある日、奈津子・サマ―がぽつりと語った。
「昔、彼女と喧嘩したんです。私、謝らなくて……。でも次の日、彼女のほうが何もなかったように“おはよう”って。あのとき、すごく救われたんです」
その瞬間、ミサッピの中で物語の骨が生まれた。
物語は三幕構成で描く。第一幕では、「出会いと日常」。第二幕で「衝突と沈黙」。そして第三幕で「和解と祝福」――ミサッピの頭には、もうスピーチのリズムが鳴っていた。
「“ねえ、あのときの『おはよう』が、私の中でずっと鳴ってる。”そう始めるのはどうかしら?」
奈津子・サマ―の目が潤んだ。
「……それ、私の言いたかったことかもしれない」
結婚式当日、控室で原稿を読む奈津子・サマ―の手は震えていた。
「大丈夫、声に出す場所、息を吸うタイミング、全部ここに書いてある」
ミサッピが渡した原稿には、言葉だけでなく、「間」と「呼吸」が書き込まれていた。
スピーチが始まると、会場は静まり返った。
「ねえ、あのときの『おはよう』が、私の中でずっと鳴ってるの――」
シンプルな導入に、会場の空気が変わった。誰もが自分の人生の「救いの言葉」を思い出し始めていた。笑いが起き、涙が流れ、最後には静かな拍手が包み込んだ。
新婦が、立ち上がってハグした。
「ありがとう、あなたらしい言葉だった」
そのとき、ミサッピは少しだけ顔を背けた。
帰り道、ミサッピのスマホに一通のメッセージが届いた。
《どうして、私の気持ちが分かったんですか?》
彼女は笑いながら返信する。
《それは、あなたがちゃんと話してくれたから。私はただ、それを“物語”にしただけです》
ミサッピの仕事は、代筆ではない。それは感情に形を与える仕事だ。誰かの心の奥底からすくい上げた記憶を、リズムと構造で編み直す。語られなかった言葉を、語られる言葉に変える。
言葉は、時に贈り物になる。そしてミサッピは、そのラッピングをするプロフェッショナルだった。
彼女の次の仕事は、半年後の国際結婚式だった。依頼主は英語が苦手な父親。日本語と英語の“間”をどうつなぐか、ミサッピはもう考え始めていた。
彼女の旅は、まだ終わらない。