2023/10/23
結婚式のスピーチをめぐる、あるやり取りを見た。
語り手は新郎の叔父。甥との深い思い出があるが、それを式で語るべきか迷っていた。
個人的な話をどこまでしていいのか。
感情が出すぎたらどう思われるか。
言葉に詰まったら、会場がしらけるのではないか――
彼は、ごく自然に「無難な道」を探していた。
しかし、話の途中で出てきた言葉が、空気を変えた。
「置きに行かない大切さたるや!」
これは一見、勢いのある一言に見える。だが、そこには、言葉というものへの真剣な向き合い方が詰まっていた。
誰かのために語るとき、私たちは弱くなる
誰かに何かを伝えるとき、私たちは無意識に「角を取ろう」とする。
気を悪くしないか、場にふさわしいか、共感してもらえるか。
その慎重さは優しさであり、思いやりでもある。
でもその一方で、「自分の言葉」が後退してしまう危険もある。
思いがあるのに語らない。語っても、表現を薄める。
そうして出来上がるのは、整っていて、誰も傷つけないけれど、誰の心にも残らない言葉。
それが「置きに行った」言葉だ。
恥ずかしさの先にあるもの
「置きに行かない」とは、つまり、恥ずかしさを受け入れることでもある。
泣きそうになるかもしれない。
うまく話せないかもしれない。
“感情的だ”と思われるかもしれない。
でも、それでもなお語る。
なぜなら、それが自分にとって本当に大事なことだから。
そういう言葉には、不思議な力がある。
技巧や滑舌ではなく、“本当のことを言っている”という信頼が、聞く人の中に自然と生まれる。
これは結婚式のスピーチに限った話ではない。
告白するとき。
別れを告げるとき。
謝るとき。
感謝を伝えるとき。
どんな場面でも、「置きに行かない」という姿勢は、誰かの心を動かす鍵になる。
そして、それは相手のためだけではなく、自分のためでもある。
「あのとき、ちゃんと伝えた」と思えることは、自分自身を救う。
以下をモチーフにしています。