2023/10/14
以下の例文をモチーフにした小説です。
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春の陽気が心地よく差し込むホテルの広間。イーストサップ株式会社の社員たちが、今日という特別な日を祝うために集まっていた。
瀬谷友樹は鏡の前に立ち、緊張した様子で蝶ネクタイを直していた。入社6年目、会社の営業部で最高の実績を誇る彼は、今日、人生で最も重要な契約を結ぼうとしていた。
「大丈夫か、友樹?」
振り返ると、同じ部署の先輩、中原が微笑んでいた。
「はい…ただ、少し緊張しています」と瀬谷は答えた。
「当然だ。でも由美子さんは素晴らしい人だし、あなたたちは間違いなくお似合いだよ」
瀬谷は静かに頷いた。由美子との出会いは偶然だった。彼が顧客との重要な会議に遅刻しそうになり、焦って駅の階段を駆け上がっていたとき、足を滑らせて転びそうになった。その時、彼を支えてくれたのが教育学部の院生だった彼女だった。小柄だけれど、意外な力強さを持つ彼女に助けられ、何とか会議に間に合った日から、二人の物語は始まった。
披露宴会場には、会社の同僚、友人、そして両家の親族が集まっていた。テーブルの上には春の訪れを告げる桜の小枝が飾られ、淡いピンク色の花びらが優しい雰囲気を醸し出していた。
新郎新婦が入場すると、拍手が沸き起こった。由美子は純白のドレスに身を包み、その表情には幸せが溢れていた。
披露宴も半ばを過ぎたころ、主賓スピーチの時間となった。マイクを手に立ち上がったのは、武藤社長だった。六十代半ばの彼は、威厳を感じさせつつも、暖かい人柄で社員から慕われる存在だった。
「本日は、ご結婚誠におめでとうございます」
武藤の低く響く声が会場に広がっていく。
「新郎の瀬谷友樹君は、弊社の営業部のなかでもトップクラスの営業成績を挙げております大変優秀な社員であります。日々、努力を惜しまない瀬谷君の姿には、感心させられるばかりでございます」
武藤の言葉を聞きながら、瀬谷は入社した頃のことを思い出していた。失敗続きの新人時代、彼を根気強く指導してくれたのは武藤社長自身だった。「営業とは信頼を売ることだ」という社長の言葉を胸に、彼は一歩一歩成長してきたのだ。
「由美子さんという良き伴侶を得ました瀬谷君の今後のご活躍を期待しております」
武藤のスピーチは、二人の将来への期待と祝福で締めくくられた。拍手が鳴り止むと、瀬谷は立ち上がり、社長に深々と頭を下げた。
披露宴が終わり、二人が見送りを終えたのは夜の9時を過ぎていた。ホテルの一室で、由美子は疲れた表情でドレスを脱ぎながら微笑んだ。
「社長さん、厳しそうに見えるけど、とても優しい方なのね」
瀬谷は窓際に立ち、夜景を見つめながら答えた。
「ああ、会社のみんなが尊敬している。僕も、彼がいなかったら今日の僕はなかったと思う」
由美子は瀬谷の背後に立ち、その肩に頬を寄せた。
「明日からも大変なんでしょう?武藤社長も言ってたけど」
瀬谷は振り返り、由美子の手を取った。
「うん、でもね、君がいるから頑張れるんだ」
由美子の瞳に星のような光が宿った。
「これからはまだ見ぬ世界が二人を待っている。時に困難もあるだろう。しかし、二人で歩むなら、どんな道も恐れることはない」
そう胸に誓った瀬谷は、由美子をそっと抱きしめた。窓の外では、春の夜風が桜の花びらを舞い上げ、新たな季節の始まりを告げていた。
—
**数か月後—**
梅雨の季節が近づき、オフィスの窓に小雨が打ちつけていた。瀬谷は大きなため息をつきながら、デスクに向かっていた。大口顧客からの注文がキャンセルになり、四半期の営業目標達成が危ぶまれていた。
「瀬谷君、ちょっといいかな」
振り返ると、武藤社長が立っていた。
「社長…はい、どうぞ」
「君の顔色が悪いね。何かあったのか?」
瀬谷は状況を説明した。武藤は静かに聞いた後、わずかに微笑んだ。
「結婚生活はどうだ?」
突然の質問に、瀬谷は少し驚いた。
「とても幸せです。由美子のおかげで、毎日が充実しています」
「そうか、それは何よりだ」武藤は満足そうに頷いた。「仕事でつまずくことはあるさ。でも、家に帰れば由美子さんがいる。それが君の強みだ。会社のためではなく、君たち二人の未来のために今日も頑張るんだ」
瀬谷の目が輝きを取り戻した。
「ありがとうございます、社長」
その夜、瀬谷は久しぶりに早く帰宅した。玄関を開けると、料理の香りが彼を迎えた。リビングでは由美子が論文を書きながら、彼の帰りを待っていた。
「おかえり!今日は早いのね」
瀬谷は由美子の隣に座り、一日の出来事を話し始めた。由美子は黙って聞き、時折頷きながら彼の言葉に耳を傾けた。
「あのね、由美子」瀬谷は言葉を選びながら続けた。「社長の結婚式でのスピーチ、覚えてる?『つらいと感じたとき、大きな壁にぶつかったとき、その大変さを共有し、解決の糸口を探ってともに前へ前へと進んで行けばこそ、その絆もまた深まっていく』って」
由美子は優しく微笑んだ。
「もちろん覚えてるわ。素敵な言葉だったわね」
「今日、その言葉の意味が本当によくわかった気がする」
外では雨が静かに降り続いていた。二人はソファに寄り添いながら、明日への希望と今この瞬間の幸せを感じていた。困難があっても、二人で乗り越えていける—その確信が、瀬谷の心を温かく包み込んでいた。